ミニマリストという病気。健全な断捨離と精神病のボーダーを考える
なぜミニマリストは「病気っぽい」と言われるのか?一般的な断捨離と病気との違いを考えてみたい。
自らミニマリストと名乗る私からみても、「これはヤバイ」と思うラインはある。いかのようなことに思い当たったら、いったん断捨離は止めた方がいい。
基準は楽しいか楽しくないか
ミニマリストが必要以上にものを持たないのは、「その方が楽しく暮らせるから」だと私は思っている。ものを捨てるのは暮らしを快適にする手段の1つなのだ。
現代人はものを持ちすぎな傾向にあるので、少しくらい断捨離した方がいいと(余計なお世話だが)個人的には思う。自分のものに振り回されるほど虚しいことはない。
だがものを捨てること自体が目的になると、ミニマリスト暮らしも健全とはいえない。こんな症状が出てきたら要注意↓
・ものを増やすことに罪悪感がある
・ちょっとでもものがあるとイライラして落ち着かない
ミニマリストといえど、ものを増やさずに暮らすことなど不可能。あくまでも目的は「快適な暮らし」だから、自分が必要だと思えば積極的に買う。
一方で病的ミニマリストは、ものを増やすこと自体を恐れる。部屋は常に何もない状態でなければ落ち着かず、床のゴミ1つすらイライラの元になる。
ミニマリスト生活の目的がちゃんと自分で分かっていれば、ものの増減に神経を尖らせることもない。なぜ自分は持たない暮らしをしているのか、ときどき思い返してみるのもいい。
暮らしが破綻していないか?
ものを捨てることにこだわるあまり、暮らしが不便になる。これも病的ミニマリストの特徴かと思う。日々の暮らしを犠牲にするのがミニマリストじゃない。
不便の基準は、ものが無いことで苦労や苦痛を感じているかどうか。世間からみたら不便な暮らしでも、自分が平気ならセーフだ。
かくいう私は、冷蔵庫のない暮らしを一年以上続けている。詳しくはこちら⇒冷蔵庫なしでも一年暮らせる。ミニマリストが教える9つのコツ。
さいわい近所にスーパーがあるので、冷蔵庫なしでも割りと快適な生活を送れている。別の土地へ引っ越したら、また事情が変わってくることだろう。
自分一人が不便な思いをするならまだいいが、病的ミニマリストになると被害が周囲にまで及ぶ。一番迷惑を被りやすいのは一緒に暮らす家族だ。ものがない暮らしを家族に強要していたら、それは病的と思っていい。
自分が持たない暮らしをよかれと思っていても、他人には迷惑・不快かもしれない。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるが、これは病的ミニマリストにも当てはまるんじゃなかろうか。「よかれ」の押し付けはエゴだ。
ミニマリストに依存する
ミニマリストが病気っぽく見えるのは、依存体質の人が断捨離にハマりやすいのも理由の1つかと思う。ミニマリストが病気なのではなく、病気だからミニマリストに惹かれてしまうのだ。
断捨離は成果が目に見えやすく、自己承認欲求をてっとり早く満たすのに打って付けだ。そういう人にとっては「ものが無いことがアイデンティティ」だから、ものが増えることを極端に恐れる。過激なダイエットにハマる心理と同じだ。
汚部屋住人がミニマリストに変わることも多いが、これも依存の形が変わっただけというケースがあるんじゃなかろうか。ものへの依存が断捨離への依存になるのだ。過食と拒食を繰り返す摂食障害に似ていなくもない。
「痩せている私」「少ないもので暮らす私」という条件付きの承認は、ダイエットやミニマリストにますます依存させる。太っていようが部屋が散らかっていようが「これが私だ」と無条件で受け入れる胆力も必要かと思う。
ミニマリストはSNSでも根強い人気を持つジャンルだから、「いいね!」をもらいやすい。SNS自体が依存性の強いツールだから、この2つがそろったらますます「ものが無い暮らし」にハマっていくんだろうなあと思う。
いい面ばかり強調すると怪しくみえる
ときどき「ミニマリストと新興宗教は似ている」と感じるが、これもミニマリストが病的に見える原因じゃないかと思う。ではなぜミニマリストが宗教っぽいかといえば、メリットばかりが押し出されるからだ。
私もミニマリスト系の記事を発信する都合上、「ミニマリストにはこんないいことがありますよ」と多く書いてきた。書いたことは決して嘘ではないのだが、いい面だけを意識的に切り取っていたのは否定できない。
そういう文を後から見返すと、「なにいい子ちゃんぶってんだ」と自分で違和感を覚える。キラキラした面ばかりが強調されるとかえって胡散臭いのだ。
いい面ばかり見てデメリットに目をつぶるのは、盲信でしかない。不都合な面も認めつつ、それでも持たない暮らしを続けるのが理想のミニマリストじゃないかと思う。
ミニマリストもやりすぎれば病的だ。暮らしを良くするはずが、自分も他人も傷つけては元も子もない。ものを持たないことは、あくまで手段であると忘れないようにしたいものだ。