「あたしおかあさんだから」の歌詞、いいところもあると思う。
母親の苦労を歌った、「あたしおかあさんだから」が物議をかもしている。今さらながら、歌詞を読んだ実感などをお話したい。
ネットでは反対意見の方が大きいが、100%悪い歌だとは思わない。部分的には、いいところもあるんじゃなかろうか。
あたしおかあさんだから
「あたしおかあさんだから」は、ネットのHuluで放送された歌だ。絵本作家ののぶみ氏が作詞、11代目うたのおにいさんの横山だいすけ氏が歌を歌っている。
問題になっている歌詞の一部は、こんな感じだ↓
一人暮らししてたの おかあさんになるまえ
ヒールはいて ネイルして
立派に働けるって 強がってた
今は爪きるわ 子供と遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたしおかあさんだから
~~~~
痩せてたのよ おかあさんになるまえ
好きなことして 好きなもの買って
考えるのは自分のことばかり
今は服もご飯も 全部子供ばっかり
甘いカレーライス作って
あたしおかあさんだから
~~~~~
いいおかあさんでいようって頑張るの
あたしおかあさんだから
あたしよりあなたのことばかり
~~~~~~
もしも おかあさんになる前に
戻れたなら 夜中に遊ぶわ
ライブに行くの 自分のために服買うの
それ ぜーんぶやめて
いま あたしおかあさん
それ全部より おかあさんになれてよかった
あたしおかあさんになれてよかった
だってあなたにあえたから
こうして実際に書き出してみると、確かにマズいなという点が目立つ。だが一方で、惜しいなという部分もある。
どんな点がまずくてどんな点がいいと思ったか、詳しくみていく↓
マズいなという部分
喜びと誇り?
この歌詞について、のぶみ氏は新聞の取材で
我慢や自己犠牲ではなく、子供を通して新しく知った世界や体験への喜びや誇りを描いた歌。
と言っている。
以前は興味のなかった新幹線の名前を覚えたなど、母親になって体験したことも歌詞には書いてあるという。確かに歌詞のなかには、「新幹線の名前覚えるの」とある。
しかし全体的に歌詞をみると、新体験というより母親のリアルな苦労がしのばれる。パートに料理にと大変だなあという感じである。
こういった苦労を、新しい世界を知った喜びや誇りで片付けるのはどうなのか。苦労するおかあさんを見て「すばらしいなあ」「頑張って!」と思うだけというのは、ずいぶんと他人事である。
もし新しい体験をした喜びを書くなら、
・知らなかったけど新幹線の名前覚えたの
・料理苦手だったけど皮むき上手くなったわ
など、母親になってからできるようになったことを中心に書けばマシだったかもしれない。
きれいごとで済まそうとしている
歌詞の最後には、「それ全部よりおかあさんになれてよかった」とある。これもこれで、母親の苦労をなかったことにしようとしている印象だ。
ときには子供がイヤになったり、育児はきれいごとじゃないはずだ。母親になれてよかったというだけでは、子育ての負の部分にフタをすることになってしまうんじゃないか。
歌詞に反対する人たちは、母親の苦しみなどを無視して「よかった」で済ませようとする部分に気持ち悪さを覚えたんじゃないかと思う。いいものはいい、イヤなものはイヤではなぜダメなのか。
ここはいいんじゃないという部分
しかしなかには、いいと思える部分もある↓
母親のリアルを描いている
「あたしおかあさんだから」は、母親からの体験談を募集して作られている。だからこそ、お母さんならば分かるリアルな歌詞ができあがった。
母親の苦労というのは、外からでは分かりにくい。それを歌にのせて伝えるというのは、とてもいい方法だったんじゃなかろうか。
「お母さんの声が1つに集まってありえない母親が生まれた」という人もいるが、リアルな苦労を知らせるならこれくらいでいいと思う。中途半端な歌詞では、聞く人の心に残らない。
決まった母親像を押し付けられたくない人がいる一方、歌詞にあるような苦労をしているお母さんは実際にいるのだ。それを全否定するのは、結局はお母さんの頑張りを認めないことになってしまうんじゃないのか。
手放しでほめるのでも、やみくもに反対するのでもなく、事実は事実として受け止めたうえで「じゃあどうするか?」を考えたい。
子供をに会えた喜び
最後の最後に出てくる、「おかあさんになれてよかった だってあなたにあえたから」というのも、母親のリアルな実感なんじゃないのか。嫌なこともあるが、それでも母親にとって子供は大事な存在だと思う。そうであってほしい。
やはり問題なのは、「苦労全部>>子供に会えてよかった」としてしまう部分か。苦労の部分を見ないようにするから、喜びの部分まで「はあ?」となってしまった気がする。
今どき「全部子供のため」という母親像は、はやらない。子供が大事でありつつ自分も大事にする、線引きができる母親のイメージが主流じゃないかと感じる。「それはそれ、これはこれ」だ。
子供に会えた喜びを書くにしても、
・疲れるし嫌なこともあるし泣きたくなるけど、あなたに会えてよかった
という感じならマシだったかもしれない。プラスの部分を伝えるなら、マイナスの部分もしっかり認めてもらいたかった。
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「子供のため」はすじ違い
なかには、この歌に感動したお母さんもいるという。自分の苦労を分かってもらえたという思いがあったのかもしれない。
それはそれでいいのだが、だからといって「親は子供のためにこんなに頑張ってるんだ」というのはすじ違いかと思う。あなたのためと言われても、子供からしたら困る。
確かに苦労はしているんだろうが、子供を育てると決めたのは親自身じゃないのか。子供に恩を着せるのはすじ違いだ。
「あなたのため」をいい続けると、こんな風になるかもしれない⇒親子関係に悩んでませんか?「お母さん、娘をやめていいですか?」感想まとめ。
子供がいても、自分の人生は自分のものだ。前にも言ったが、今はなんでもガマンする時代じゃない。
育児は大人の責任
とはいえ、実際は子育ての苦労はお母さんに集中している。自由にやりたくてもできない親もたくさんいる。
専業主婦がメインの昔なら通用したことも、働く母親が増えた今ではもう無理だ。子育ては親だけでやるものというシステム自体に問題がある。
今は、育児は親だけの責任じゃなく大人全体の責任なんだと思う。家族という枠を超えて、地域や国が援助していくことが必要じゃなかろうか。
今でも親をサポートするシステムはあるが、十分じゃない。もうちょっと国も、子供のために予算を削ってほしいものだ。
「あたしおかあさんだから」は、お母さんのリアルの伝え方が不十分だった。ただ事実を並べるだけじゃなく、そのなかにある葛藤なり悩みなりも書いたらよかったんじゃないか。
これが2000年代なら、まだいい話で終わったかもしれない。今は、お母さんもガマンをしない時代だ。