宝塚歌劇団も歌舞伎も、もう男女混合でいいんじゃないか?
相撲の女人禁制ルールで、男女差別の話題がもりあがっている。とくに男尊女卑文化の日本では、根の深い問題だろう。
しかし今の世の中LGBTsやGID(性同一性障害)という言葉が広く知られるようになるなど、男性・女性というボーダー自体があいまいになってきている時代だ。男だの女だので揉める自体に、果たしてどこまで意味があるんだろうか。
男子禁制、女人禁制の文化
相撲に限らず、日本は性別でたて分ける文化が多い。前の相撲の関連では、
じゃあ歌舞伎が女人禁制だったり、宝塚が男子禁制なのは男女差別なのか?
みたいなツイートをみかけた。
歌舞伎も宝塚も、男性だけ・女性だけが舞台に立つことで独特の世界観をうち立てている。その世界観も大事な要素だから、性別が入り混じったら文化の根っこが揺らぎかねない。
おそらくだが歌舞伎や宝塚のファンも、そういう世界観が保たれることを望んでいるんだと思う。それを男女差別というのは、確かにお門違いかもしれない。
そもそも性別ってなに?
だがそうすると今度は、「じゃあ性別ってどうやって分けるの?」という問題にぶち当たる。禁制といっても、どのラインを超えるとアウトなのか。
・心が男(女)なら、歌舞伎役者(宝塚女優)になれるのか?
・逆に心が女(男)だと、歌舞伎役者(宝塚女優)がつとまらないのか?
・トランスジェンダーはどうなるのか?
・性転換手術すればいいのか?
・女装癖(男装癖)がある場合は?
・見た目が男性らしい(女性らしい)なら?
ちょっと考えただけでも、こんな疑問が浮かんでくる。
単純問題、生物学的に身体が男(女)ならパッと見の世界観は保たれるかもしれない。しかし「男が演じる女らしさ」「女が演じる男らしさ」も含めた世界観となると、心の性差も大きく関わってくるはずだ。
女形も男役も、ちがう性になりきろうとするから醸し出されるオーラがある。それが現実の男女と一致しているかはさておき、世界観を保つためには欠かせない要素かもしれない。
だが身体と心の性別がピッタリ同じというのは、当たり前のようで実はとてもあいまいなものだ。女人禁制・男子禁制といっても、厳密に分けるのは不可能に近いんじゃないのか。
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伝統の世界観と可能性
ここでさらに気になるのが、「条件は満たしてないけど、歌舞伎役者・宝塚俳優になりたい」と思う人たちはいないのかということだ。女だけど歌舞伎役者になりたい、男だけど宝塚の舞台に立ちたいと願う人もなかにはいるんじゃなかろうか。GID当事者のなかにもいるかもしれない。
もしそういう人たちの希望を断ったら、それは差別になるのか?それとも、伝統文化の世界観を保つことを優先するべきなのか?これは決着のつかない問題にも思える。
だが前にも言ったが、男女のボーダーなどあいまいなものだ。世界観の前提自体があいまいなら、性別や性自認を理由に断るのはもはや必然性がないんじゃなかろうか。
女人禁制・男子禁制は歌舞伎と宝塚のアイデンティティーだろうから、それを破ったら存在意義そのものが危うくなるかもしれない。ファンの反発もすさまじいだろう。
じっさい宝塚歌劇団には、8年だけだが男子部があったという。だが世界観にそぐわないという理由で、表舞台に立つことはできなかった。
だがあり得ないことを取り入れることで、それまでになかった新しい世界観ができる可能性もある。それまでの世界観とのバランスもあるが、間口を広げるのは必ずしも悪いことじゃないんじゃなかろうか。
ちなみに歌舞伎も、もともと阿国という女性がつくったものだ。だが江戸時代になると、女性目当てのお客がいざこざを起こすというので女人禁制にされてしまった。女人禁制・男子禁制は、風紀の乱れを起こさない意味もあるのかもしれない。
だが男性だけ・女性だけでも、風紀などかんたんに乱れるものだ。LGBTsの問題まで含めると、性別でたて分けても大した意味がないことは分かるだろう。
当の歌舞伎役者や宝塚女優の人たちはどう思ってるんだろうか。もし機会があるなら、ぜひ話を聞いてみたいところである。
現実的な問題もある
歌舞伎や宝塚に限らず、性別の垣根などない方が自由でいいんじゃないかと思う。だがあまりに自由すぎても、それはそれで危険だ。
いくら心が女性だと言っても身体が男性の人が女子トイレを使ったら、ほかの女性たちは不安に思うだろう。逆に心が男性でも、身体が女性なばかりに危ない目に遭う可能性も十分ある。LGBTsやGIDへの理解が広まってきたことを悪用して、女性や男性の輪に入り込もうとする輩もいるだろう。
ごく一部の問題を起こす人たちのせいで、全体までマイナスイメージになるのが一番よくない。そういうヤツらはしっかり規制しないとなとも思う。
もう、男女の違いをどうこういうこと自体が古い。自分のやりたいことが性別のせいで出来ないというのは、おかしなことだ。
生物学的な限界や、法律的な問題はもちろんある。だが、100%禁止する権利は誰にもないはずだ。